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無印都市のこども @shiomiLP

6月 25 '12

川端康成『雪国』の視点について

 

“ トンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった”

(川端康成『雪国』新潮文庫)。



 上記の川端康成『雪国』の冒頭文は、主語が欠落している。

 作者である川端康成が書いた文章に主語がないのだから「その文章に主語は不要」というのが限りなく正解に近いのだとは思うが、その文章に当てはまる主語が存在すると仮定して。それに相応しい主語になりうる可能性のあると考えられるものは二つ、主人公の名前「島村」、もしくは、トンネルを抜けたその「汽車」である。





視点

 この作品は、基本的には「島村」という三人称によって物語は進行する。そして作品を読む限りそれは「三人称単元描写」であり、すべての風景描写は「島村」の目から見えるもので語られている。

 また、『雪国』には、「しかし、ここで「娘」と言うのは、島村にそう見えたからであって、連れの男が彼女のなんであるか、無論島村の知るはずはなかった」(p. 7)といったような文章があり、そこには「島村」を観察する「語り手」の存在が大っぴらに現れる。その「語り手」が、三人称特有の「神の視点」を持っていながら、基本的には「島村」の視点からでしか風景描写しないのであれば、冒頭文の主語も、「島村」からの視点によるものが当てはまるのではないかと私は考えた。

 このエントリの冒頭で引用した三文の、第二文「夜の底が白くなった」は、「それまでは白くなかった」という風にも取れる。何故「白くなかった」かを考えると、それは単純に雪のないトンネルの中を列車が走っていたからである。つまり、トンネルを抜ける前、物語が始まる直前の0ページ(というものがあるとするならば)では、視点(カメラ)はトンネルの中、つまり列車の中にあったと考えられる。列車の中にカメラを置いて、そこからトンネルを抜け、白くなったのを見たのであれば、それは同じく列車に乗る「島村」の視点であると言えるはずである(もちろん厳密にはそうとは言えないかもしれないが、限りなく「島村」の視点に近い効果が得られるはず)。つまり、冒頭文を無理やり映像化するならば、汽車に乗っている「島村」が窓越しに雪を見る、という視点(カメラ)になるはずである。





英語

 主語が無くとも許される日本語とは違い、英語には主語が必須である。

英語に翻訳された『雪国(Snow country)』の冒頭文を調べてみると、第一文は、

“The train came out of the long tunnel into the snow country”

(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー【Edward George Seidensticker】訳。以下の英文も同氏)

となっていた。

つまりこの場合の主語は「The train」である。



 つづく第二文、「夜の底が白くなった」は、

“The earth lay white under the night sky”

 第三文、「信号所に汽車が止まった」は、

“The train pulled up at a signal stop”

と訳されている。

それぞれ主語は、第二文は「The earth」、第三文は第一文と同じく「The train」である。

 それぞれ英訳されたものを再度日本語に直訳しなおすと、

「列車は長いトンネルを出て雪国に入った」

「地は夜空の下で白く横たわる」

「列車は信号で止まった」

となる。



 英訳された三文を読むと、すべてが客観的な視点からの描写であり、「島村」の体験ではなく、ただそこにある事実をたんたんと書き連ねているだけのような印象を受ける。「島村」のフィルターを通さない完全なる三人称によって書かれている英訳と、三人称でありながらも「島村」を通して世界を見る一人称的形式をとる川端康成の原文とでは、語る形式が異なり、読み比べてみても、温度差を感じる。また、三文の英訳されたものは「物」が主語となり、まだ人間は存在していない。もちろん川端康成の原文もこの時点ではまだ「島村」は姿を見せていないが、「夜の底が白くなった」のを見た「誰か」という形で、人間の存在は辛うじて確認できる。





個人的な感想

 実際に英訳されたものの主語は「The train」であったが、それではあまりにもたくさんの要素を取りこぼしてしまっていると僕は思う。「The train」を採用することによって、隠れた人間の存在を完全に消し、視点まで原文と異なってしまう結果となってしまっているからだ。

 シンプルさを追求する傾向にある英語としては「The train」を主語にするほうが文章として美しいのかもしれないが、日本語小説の翻訳としては、あまり正確でないのではと僕は思う。


7 リアクション Tags: report 日本文学 小説 文学 川端康成 Yasunari kawabata

  1. ibegyou-xxxshiomilpからリブログして、コメントを追加しました:
    東海大学文学部文芸創作科の 学科説明会で 全く同じことやったワロタ
  2. koucha2banshiomilpからリブログしました
  3. tsurugee1shiomilpからリブログしました
  4. madkazushiomilpからリブログしました
  5. shiomilpの投稿です